アゴラ : 「ソフ倫」の自主規制問題についての再論 – 松本徹三
この前の記事も、取り上げさせてもらったのですが、
さすがに比較対象にしてしまうと、手塚先生に怒られてしまうのかもしれませんが、漫画が一般に定着し始めたころの、「まんがはおやつ」論が浮かんできてしまいました。
もちろん、別に成人向けの作品に対して叩かれていた訳ではないのですが、悪いモノ、制限されるモノという風潮があったと聞いています。
(若干、そういう部分が今でも残っている気がしますが、それはまた別の話で….)
もちろん、そのような作品(今回でいえば陵辱描写のある成人向けの作品)に嫌悪感を覚える人もいることも、「なぜそんなものを販売しているんだ」と思う人がいることも、「そんなひどいものうちで販売できませんよ」と言う販売店もいて当然だし、それも正当な主張だと思います。
でも表現の世界って、そう簡単にわけられるものでは無いと思うんです。
それに、どんな意図を持って作り手が送り出したとしても、一度人の手に渡ってしまうと、渡った人の分だけ、さまざまの解釈が生まれていきます。
それは、小説であろうと、漫画であろうと、ゲームであろうと、ビデオであっても同じだと思います。またそれは、作り手にとって嬉しいこともあり、もちろん複雑な部分もあるかもしれませんが、それは自分の生んだ作品が多くの人の手に渡っているという事ですから、喜ぶべきことでしょう。
ただ、多くの人の手に渡る前の時点で、作り手が意図としない解釈で、日の目を見ない存在になってしまうことがあったら?それでもその決定を納得する事ができるでしょうか?
だからこそ、「陵辱」というテーマだから…ではなく、表現を範囲を制限してしまうような事は、前例をつくってはいけないと思うのです。
もう一点、ひっかかる部分がありまして、
もちろん、「アクセスが比較的容易」だから、(判断がつく年齢になるまで)制限しなきゃいけないというのは、別にあってかまわないと思います。
ただ、それなら余計にまず制限すべきところは「表現そのもの」ではなく、「入手/閲覧手段」ではないのでしょうか。
「18歳以上ですか?」というリンクを踏ませる「だけ」というのは、もちろん論外ですが、もっとしっかりと年齢を識別する方法はないのでしょうか?携帯だと、法律で義務付けされているフィルタリングというのも手でしょうし、年齢認証とセットになっている決済サービスだってあります。タバコの自販機で導入されたタスポを一般開放….というのも考えてみる価値はあると思います。
可能かもしれない「認証」方法の実装を義務にする議論もしないで、「だから…」というのは非常に安直だと思うのです。
….それを理解していただける自信は全くないのですが。
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