私が「性表現のパロディー的な表現」がまずいと思う理由 #jcomi #jcomi_premium

※記事中に一部、アフィリエイト広告による商品へのリンクが含まれている事があります。※

Jコミ・プレミアムに、次の作品が登録されたようですが、ちょっと昨日の続き。
なんかね。頭の中の整理がつかないから、ちょっと書き出してみようかと。
つまりは、昨日話題にした「奥サマは小学生」の件で出てきた「パロディー的な表現」という話。
だーっと、Jコミのハッシュタグとか、いろんな人のツイッターコメントを見た感じでは、それほど悪く感じている人は多くないようでした。
まあ、プレミアムサービスが(100円とはいえ)有料であり、まだ1作目であるワケですから、好意的に思っている人しか集まってないのかもしれませんが…。

私の個人的な感覚としては、性表現のパロディーというのは「表現の制約の中から編み出した手法」であるとは思うので、あってかまわないと思います。
ただ、「裸だとはいえ、ニュースを読んでいるだけ」のネイキッドニュースでさえも、「アダルト」と判断される方が多い世の中ですから、まあ間違いなく誰かから何か言われるよな?とは思います。

あともう一つ言うとすれば、その表現が割と幅広く多用されており、目につきやすい為に「パロディ元の行為」をわりと簡単に連想できてしまう人が増えてしまったという点があります。
その点は、松山せいじ先生が悪いと言う訳でもないのですが、掲載誌もどちらかと言えば…。という印象で、過剰反応される方の気持ちもわからないでもないのです。
個人的にはベタな表現は嫌いではないのですが、新たな表現方法が模索できないのであれば「むしろ18禁コーナーに移動して頂いた方が」安心して読めるんじゃないかと。松山先生の例の場合は、登場人物(主人公の妻)が低年齢(小学生)だったというのがあると思いますが、メインの登場人物が何歳であってもです。

ただ、そこを考えるのは作家ではなくて、出版社や編集部のハズで、思うのは「作者がどんな表現を扱おうと、安心して表現をできる場をつくる」というのが出版社とか編集部の仕事のはずだと思うのですが、私の勘違いなのかな…と。じゃなきゃ別に同人流通とか電子書籍でいいじゃんよって世界だと思うんですがね…。

コメント

タイトルとURLをコピーしました